『ユーコの蒼い夜』
#1 予感
寝室のナオトはもう寝息を、いつもながら平穏な重低音で、響かせていたのでドアをそっと、閉めた。私は描きかけのデッサンをもう一息で仕上げようとしている。足元をリリィが、白い尾を擦り寄せながら通り過ぎ、窓に寄せた小さな棚の上、私の蒼い石に飛び乗って丸くなった。夏至に近い満月は地球を最も近く周回し、今や日付変更線を通り越し天頂を、過ぎて、西向きの私の窓辺に光線を下ろしている。深い夜は好きだ。増幅された魂がゆらいでいる。この宇宙はゆらぎから相転移して弾けて生まれた、その残響が今夜も聞こえる。遠いのか、近いのか、内なのか外なのか、おそらくリリィもそれを聞いている。予感、とはそういう類のものなのだ。予感を頼りに人は命を運び、作家は言葉を紡ぎ私は、線を引き色を乗せ画を描く。朝までに下絵を仕上げて週明けのミーティングに、心を準備しよう。編集者からの〆切はいつも期限の一週間前を指定している、それはもちろん承知している。予感、の解読に十分な時間を私は費やしたいのだ。原稿をスキャンする、電源が入らない。あぁまたリリィだ。ケーブルを辿る私を素知らぬ顔でリリィが眺めている、どうしてネコは愚にもつかないものばかり齧るのか。仕方がない、お月見がてらコンビニまで歩こう、FAXを送りに。まだ起きているだろう担当者にメールをすると直ぐに了解と気さくな返信が届いた、続けて鳴ったアラートはマリからのいつもの深夜通信だった、新しいバンドでレコーディングするからイラストを添えてくれないかと。マリはいつも私の予感を鋭敏に察知する。わかったよ、お月見しながら考えておくね。
#2 輪郭
リリィが抱え込んだ蒼いペンダントヘッドを、取り上げて、胸に結び、デッサンのファイルを抱えて私は部屋を出た。満月は高く君臨し、輝度を保って建物の輪郭を極めている、レースのカーディガン越しに風が湿度を忍ばせて夏の、予感がたちこめる。スニーカーを久しぶりに履いた。装備は身軽に、ポーチをアミダに掛けて。あっ鍵を忘れた。マンションのエントランスはオートロックでナオトを無粋に呼び起こすのは、酷だ、月の夜を楽しもう。私はいつも何かが、足りない。要するに私は自信がないのだ、いや根拠のない自信ならある、ずっとそうだった。夜毎マリと語り明かしたのはその不確かな自信をせめて、衝動に置き換えて手繰り寄せようとする実験のような季節だった。マリは、歌い手で、私は絵を描く。モノを生む為に我が身に宿される何か、について私たちはいつも遠回りな方法で確かめ合っていた、私は、宿すことを怖いと感じている、それを認めたくないのだけれど自分ではないモノを懐胎する度に魂は異界へ、連れ去られるのだ、それは覚悟を私に突きつける。月は足下に、陰を描かない、夜は私を安心させる。私の魂は輪郭が曖昧だから黒い声がときおり忍び寄る、今夜も、神社を横切れば近いけれど足が向かない、街灯が暗いせいではない、界を結ぶ隠然とした重力に私の何かが抗うのだ。広い空を求めて公園まで足を伸ばしベンチに腰を下ろした。習慣のように携帯を開く、つもりがポーチの中にそれが無い、やっ忘れた。満月は手放すのにうってつけの日。うっかりが過ぎる自分を慰めよう。
#3 衝動
蒼白い満月は左から3本目の梢へと傾きながらメタリックな雲のホワイトにドロップシャドウを施している、なんだかCGみたいだ私なら鉛筆モードで、などと、妄想する癖を私は嫌いではない、物心つくよりも先に描き始めていたことを誇りにすら思っている。見えているもの、とアリノママとは互いに異次元の国に住む。その橋渡しなのだと思う、私にとって描くことは。タンッ、とベンチが小さく揺れて身構えた。ネコだった。精悍な子だ。白く嫋やかなリリィに見慣れているからそう思うのだろうか、モノクロの虎柄は斜辺の丸い直角三角形のシルエットで私を見つめている、リリィのような目で。あぁそうなの?キミもこの蒼い石が好きなの?当てもなくノートを広げスプーンのようなふたつの耳や零れた星の軌跡のような髭や署名のように添えられた尻尾などをデッサンする、いつだって唐突に脈絡もなく連想は線を結び像を描く、そうだ私はいつも描いていた、なんでも何にでも、描きなぐっていた。絶叫のような白い声がいつも突然訪れて、強大な力で、私を突き流すのだ見知らぬ畔へ、連れ去られて呆然と、ここは何処なのか私は誰なのか、描くことでせめて生の鼓動を確かめるのだった。衝動、という語を大人になって知ったけれどその正体は今も知らない。ネコは不意に身構えて横顔を低く一点に集中させた。そうだきっと私はあんな目をしているんだ、外ではなく内へ向けて、口数の少ないお絵描き好きという幻影のウラ側で獰猛な白い牙に、魘されているのだ。何を見つけたの?行ってらっしゃい。ネコは暗闇を駆けて行った、真直ぐに、全速力で、あの子には何が見えているんだろう。覚悟、なのかも知れない、生きることは自分を拠り所にする以外に座標がないのだから。
#4 瞑想
ネコは何かを咥えて戻ってきた。獲物を、わざわざ私の視界に運んでチャラリと落とし、抱えるように丸くなった、誇らしげに。ちょっと何それ?誰かの鍵じゃない。数珠のような石がキーホルダーに付いていた。見せて頂戴、と拾おうとすると再び咥えて歩き出す。逃げるのかと思うと、そのまま芝生の縁でコチラを誘うようにふり返っている。仕方がない付き合うかと腰を上げネコに従うと、植え込みの向こう、平らかに開けた芝の中央あたり、蓮華座に座る人影があってハッとした。いつからそこにいたのだろう。気配、を抑えて私はその背中に見入った。神社の黒い結界とは対称的に、彼の瞑想は蒼い月の下で繭のように守られた抱擁を、白く放っていた。雲の影が彼を避けるように芝を渡った。もしかしたらこんな風に呼吸だけにフォーカスされた楽園が私の中心にもあって、白い声を放射しているのかも知れない。それは特別なことではなく彼もきっと、あの声が聞こえているのだと思う。風が立って、瞑想の結界を破るようにネコが走った、対角に芝を駆け抜け、中心の蓮華座に鍵を投下し、奇襲された男は左回りに体を開いて滑らかにネコの軌跡を追った。その視線を導くように、最初に戻って私の手前でネコは伏せた。通り雨のようなシークエンスが去って、清められた沈黙が彼とネコと私を結んだ。彼は私の視線に、驚かず、月を見上げた。さっきより湿度を宿した白い月だった。
#5 邂逅
ただそれだけの出来事だった。彼の声もネコの寝所も私は、知らない。一瞬の目配せだったけれど、同じ月を見上げたことをきっと私は生まれ変わっても覚えているだろう。邂逅、とはこの宇宙を織り成す無数の糸と糸の紡ぎ目なのだと思う。私たちはそれぞれに孤独だけれども連鎖している、手探りだけれど、ときおり雷光が地平を照らす瞬間があってそれを頼りに人は暗闇を走るのだ。コンビニで要を足して外へ出ると、空が光って、雨がぽつりと降り出した。帰りは濡れても構わない、ナオトを起こそう。ユーコは本当に雨女だなぁと笑うだろう。マリには勇気と出逢った話をしよう、どうせまたアバンチュールを逃したと呆れられるのだろうけど。
(文 / モトカ)編集工学研究所 30破 アリス大賞受賞作品
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#1 I'd Rather Be High / David Bowie
#2 sea / Spangle call Lilli line
#3 Summer Gypsy / Nujabes
#4 You've Changed / Margot B.
#5 Open Arms / 樹里からん
#6 Screamadelica / Primal Scream
#7 This Could Be The Night / 山下達郎
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