モトカです。
今週はリエンヌが夏休み。
真鶴「風にかえるアトリエ」に創作ジュエリー作家の伊東知子さんを訪ねました。
螺旋スピリチュアル
モトカ:前身のSoulBeautyから7年ぶりのトークセッションになります。いろいろありましたけど、7を越えて8へ向かうというのはちょうど1周して次のスパイラルに向かうような感じがしています。
流行を語るときは、時代をリードするのは半歩先がちょうど良いと言うんです。1歩先だとアバンギャルドで過激に映るし、2歩先だと視界から消えて意味が分からない。そして3歩先だと1周廻って時代遅れに見える、というような。
モトカ:
もともとはラジオの前にタウン誌のコラム企画だったんですよね。「美について、日々の仕事での気づきなどを通してスピリチュアルな視点で見つめ直して綴ろうとする実験的な企画」というコンセプトでした。
「スピリチュアル」という言葉がまだ新鮮でしたよね。
知子:
新鮮と言うよりは「何言ってるの?!」という雰囲気で、「スピリチュアル」ということを言うことが気恥ずかしく感じる時代だった気がする。
モトカ:
私、今は逆の意味で気恥ずかしいんですけど(笑)
知子:
分かる分かる(笑)。
いわゆる「スピリチュアル」と言われるモノの、ちょっと変質と言うかやり過ぎとか誤解があったり、いろんなバージョンが生まれたりして、だからその言葉を使わないで別の表現で言おうとしたりとか。それくらい時代が変わったかも知れない。
まだ もどかしい
モトカ:
ホントに7年って一時代ですね。311もあって地獄の釜が開いてしまったし。
あの時も何か仕掛けようかと相談したりしましたよね。
知子:
そう。で、何でやらなかったんだっけ?
モトカ:
あの時は「プロ」の出番だと私は思ったの。
知子:
あー、そんなこと言ってたね。自分の日々の仕事を、って。
モトカ:
うん。
ああいう危機的な状況で、希望も見えて来ないような時に何をするか迫られた時に、そこで今更のようにジブンサガシをして改めて悶え苦しむのではなくて、「いや待てよ」っと思ったのよね。ずっとずっと取り組んで来た仕事じゃないか、って。状況は変わってしまったけれど、自分に与えられている仕事は何が起ころうと変わらないんだと思って、それで取って付けたような企画じゃなくて地に足を着けることを選んだ。
でも、淡々としながら悶々としていた。もどかしくて。
知子:
そうね。やっぱり自分と向き合わないと作品も出来ないし、出来ることというのは自分の日々の仕事である訳だから。危機が起きた時にどういう心理になって、それをどう越えて行くかということは当時ブログで発信していた気がする。
あの直後って言葉がすごく難しかった。それくらい日本中がデリケートになってたんだよね。で、それはまだ続いてる。
2から始まる
モトカ:
以前「数字」のワークショップをなさってましたね。どういう内容だったんですか?
知子:
例えば水晶が6面体だったり、そこに3角形の刻印が浮き出て来たり、クリスタルと数字って結構リンクしているんです。
「数秘学」って奥深い学問なんだけど、それよりも日本人として四季があってそれは「4」だったり、パートナーシップは二人だから「2」だったりとか、自分たちに身近な所でどういう風に数字を意識しているのかを思い出しましょう、という教室でした。
モトカ:
「数」の概念は「2」から始まったということを本で読んだことがあります。「1」は「2」の片割れである、と。
知子:
あ。それは女性から命が生まれるから、順番という方向性のあるものにすると「1」から数えるのかも知れないけど、ふたつのモノからいろいろ生まれたのかもね。「2」から「3」、「2」から「1」って。
「統合」の発想かも知れない。たとえば一人の人間に女性性と男性性の二つがあって、そのバランスが取れる所に成功があるっていう言い方をするんだけど、自分のバランスが取れていると相手とのバランスも取れるようになる。
だから多分、究極は「2」っていう感覚を持って生まれてるんだけど、何らかの要因でバランス取れていない状態になるんだよね。で、それをバランス取って行くことが「成長」なんじゃないかなぁ。
モトカ:
そして「3」「4」と増えて行くと、、?
知子:
どうなんだろう。立体になって行くのかなぁ。
モトカ:
ネイティブの文化だとせいぜい「6」くらいまで数えればあとは「たくさん」って。(笑)
意味のある「数字」っていくつまでなんだろうね?
知子:
「2」を実現するだけでやっとやっと。心理学で言うと「1」が依存期、「2」が自立期、「3」が相互協力期という言い方をするから、それでまた螺旋で廻って行く。
でもまだ地球は依存期なんだと思う。世界を見ると、大きな国に弱い国が頼って、とか。だから「2」を実現すると、戦争は「戦い」っていう形ではなくなってくると思う。
悲しさに気づかない
モトカ:
そう言えば7年前も「戦い」の話になりましたね。
知子:
そうだっけ?忘れちゃった。(笑)
モトカ:
その時は「感情」の話でした。「怒り」の向こう側には「悲しみ」があるから怒る練習をした方が良い、って。
その後、私なりに積極的に「怒り」と向き合うように努めてきたんだけど、怒ることって難しい。上手に怒れない。
知子:
うーん。「怒り」って本当に難しくって、怒りのムコウという表現をしたかどうか、「悲しみ」を隠す方法が「怒り」。
何か出来事があってすごく悲しかった時に、その悲しみを伝える方法もあったんだけどその悲しみと繋がることがヘビーだった、というようなことなんだと思うんだよね。そのために「悲しみ」の回路を使うのではなくて、「怒る」という表現を択んだ。悲しくて泣くよりも、相手を叩きのめしてしまえ、と。
そこが「怒り」が「戦い」になるっていうことなんだけど、本当に伝えたいことは「今のあなたの態度や出来事が私にとってもの凄く悲しい」という表現。
いろんな社会の事件に対しても、みんないろんな所で怒るよね。Facebookとかで簡単に発信できるし。その時に「怒り」を使うけど、本当は「悲しい」という表現なんだよね。みんなの「怒り」は真実なんだけど、もっと深い潜在意識の部分では「悲しみ」。
モトカ:
そうか。その「悲しさ」に私たちは気づいていない?
知子:
うん。
自分が悲しいっていうことは、その事実を自分が択んでますっていうことなんだよね。ということは、他の事実を選択し直せば良い。「怒り」にアクセスするなら「私の択んでいる事実を明日も感じたいのかな?」って。もし感じたくないなら、違うものを択んで行こうって自分が変われる。その作業は潜在意識と繋がる必要もあるけど、自分が事実を変えられるっていう強い意識的な行動だよね。
それを私たちは教育で教えてもらってないので、なかなかそれは難しい。「人前で怒ってはいけません」ていう文化になってるでしょ?それは「潜在意識と繋がってはいけません」って言われてるってことなんだよね。
モトカ:
なるほど。
怒りを赦せるか
知子:
だから「怒り」自身も混乱してパニックになるし、まして「怒り」の下にある「悲しみ」に繫がれない。自分の中にあるものなんだけどね。
人間のすごく深い、この世に生まれてきて生きていることに悲しみを持つとかっていう部分って、そういうものを日々感じていると生きて行けないから、たいてい自分の意識からは外すよね。そうするとだんだん離れて行って繫がれなくなって、「怒り」の回路だけが発達するんだよね。怒り体質というか、キレやすくなる。そしてどんどん「被害者」を選択するようになって行っちゃうんだよね。
原発の問題にしても、どうしても一個人では変えられない問題ってあるじゃない?被害者というか受け身の立場になってしまう。
モトカ:
「怒り」は「怒り」を呼ぶものね。
知子:
呼ぶ呼ぶ。怒っている人同士で共鳴しやすい。
一種の炎だよね、「怒り」は火のエネルギーだから。一人一人は小さな炎でも、まさしく「炎上」する。
モトカ:
笑い飛ばせたら「怒り」も成仏できるかな?
知子:
そうだね。(笑)
「怒り」への対処って私はちょっと変わってきていて、前はダイレクトに「悲しみ」にアクセスすることの方が大事かなと思っていたけど、「怒り」は「怒り」でちゃんと感じる、階段は一つづつしか下りれないっていうことを実感している。人に表現するかっていうのとは別に、「怒り」を感じることを自分に許してしっかり味わうことは大事だなぁと思う。
無意識層のエネルギーって感じないと無くならないんだよね。「悲しみ」の方が潜在意識では深いからそっちへ行けば良いと思っていたけど、それが私にとって「怒り」をストックする一つの理由になっていたんだと思う。「コントロール」って、心の中で「怒り」の置き場所を変えるだけかも知れない。感じて手放せば、「怒り」はそこで消えて行く。
モトカ:
場所を移しただけじゃぁカラダに悪いよね。(笑)
知子:
カラダ冷やしたりして行くんじゃないかな。
それでまた怒ってしまったとか、怒っている自分に苛つくとか、そうすると自分のことを好きになれないよね。幸せでいる方法って、やっぱり自分を好きになることかなって思う。どんな感情を持っていても、それを自分で許して行く。それしか幸せでいられないような気がする。
戦いを択んでいる
モトカ:
まぁねぇー。自分のことがいちばん厄介だよね。(笑)
でも「怒り」に限って言えば、許せない何かがあるから怒る訳で、それは自分の手の届かないことだったりもする。原発のこと、政治や経済のこと、基地のこと、等々。そういうやり場のない怒りはどうしたら良いかしら?
やっぱりコブシ振り上げてデモしますか?
知子:
それも一つの方法だし、間違ってないと思うんだけど、それは「戦い」を択んでるんだよね。ダースベイダーだよね。(笑)言っていることは正しいかも知れないんだけど、結局ね、自分が戦いの化身になる。
ウチの父は平和を闘争的に訴えてたんだけど(笑)、怒って表現することは平和を乱してるでしょ?本当に平和を択ぶのなら、自分の心を先ず平和にって思う。
モトカ:
「怒り」を表明している人自身は、陶酔感に浸っているのかも。
知子:
あー。それはあるかもね。カッコイイよね。(笑)
格闘家とかスポーツ選手も、ほっぺ叩いて自分を鼓舞するじゃない。ああいうスポーツとかの表現なら平和なんだけど、憎むとかの感情に発展すると平和からは遠ざかる。
モトカ:
火が火を呼ぶということが罠ですよね。
知子:
そうだね。巻き込んで大きくなりやすい。
今悲惨なニュースが多いから落ち込むことも簡単だし怒ることも簡単で、自分の平和の泉をキープすることは大変なんだけど、そこからズレないようにするっていうのが私の選択かな。
モトカ:
メソッドはありますか?
知子:
感じること。感情を深く感じられる人と一緒にいると、感情の深くに入って行かれる。
モトカ:
いやぁ、ますます「怒り」が難しくなってきた。(笑)
知子:
うーん。みんな困ってるんじゃない?
モトカ:
もしくは「不感症」になって暮らすしかない。
知子:
うんうん。そうだね。
「怒り」は自己攻撃なんだよ。自分の一部が他の部分に対して、ずっと攻撃してるってこと。それが他者に投影されているだけ。
モトカ:
なるほど。
ということは、たとえば社会に対しての「怒り」っていうのは自分自身のもどかしさへの怒り?
知子:
元々はそう。でもそういう風には感じないから、外へ向かって投影されている。
それは全部、自己攻撃。
[伊東 知子 さん / プロフィール]
神奈川県真鶴町『風にかえるアトリエ』にて、「目には見えないけど つながってる」をテーマにインスピレーション発信中。
作品づくりの傍ら、各地で作品展を開催。創造的インスピレーションを活かして、アートワークセッションやヒーリングセッションも行う。(1965年) 信州・北アルプスの麓で生まれ育つ(1986年) アマチュア劇団入団。みんなでひとつのものを創り上げる喜びを知る(1990年~) インドへ渡り、染織を学ぶ(1994年) 文化庁芸術研修生として舞台衣裳を学び、舞台衣裳家として独立(1997年) 天然石や自然素材に魅了され、創作ジュエリーをつくり始めるビジョン心理学と出会い、「アート・ワークショップ」をライフワークとしてスタート(2001年) 神奈川県真鶴町に、『風にかえるアトリエ』オープン
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#1 I Can See Clearly Now / Holly Cole Trio
#2 What the World Needs Now / Valerie Joyce
#3 Little Wing / choro azul
#4 I Want To Be There / Marcus Miller
#5 Crossroads / Calm